体罰論。 を読んで。


最近親とか学校の先生が体罰することに、結構厳しい処分がされるようになって違和感覚えます。

体罰と暴力は区別すべきだと思う。「罰」というイメージ云々というよりも、「罰」と「しつけ」の違いだ。ただ、今回は深く考えずに「体罰」と表現することにする。


体罰はいけないという理由が、単に苦痛を与えるから、あるいは暴行は刑法犯であるというような短絡的な観点から来ているのが問題だと思うのだ。


「苦痛を与える」という方法は、学習システムの中においては効果的な方法の一つである。効果があるから、そういうやり方が古来からあり、今もあるのだ。


コメントでも誰か指摘していたが、体罰を受けた側は、なぜ悪いのか分からなくても、その行為を止めようとすることがある。善悪でなく罰がイヤだからよくない、と考えることがコメントした人の主張だったと思うが、そうだ、実はこれが体罰の効果の本質だ。


、殴られると痛い痛み回避しようとするのは、人間の本能的な行動である。だから、殴られないようにする。そのために行動パターンを変える。これが体罰による学習のシステムの基本サイクルである。体罰とはそういう本能的なレベルでの刷り込みを行う学習方法である。この「本能的」というのは非常に強力であることに注目して欲しい。


理想的なのは、そこで思考停止してしまったらそれまでなのだが、体罰が受ける側がなぜ殴るのか、なぜ殴られたかをきちんと考えて、理解する、というパターンだ。むしろ、そうでなければならない。しかし、特に子供にはそれが何故なのか、理屈で説明しても理解できないことがある。例えばマッチで遊んではいけないとか、屋上で柵の外に出てはいけないとか、他人にナイフを向けてはいけないとか、そういう緊急性の高い内容で、どうやって理解させるかという問題もあるし、理解より先に行動を止めないと危険な場合がある。


殴らなくても粘り強く説得すれば分かるのではないか、という意見があるかもしれないが、それは完璧に否定しておく。大人になっても殴っても分からないような奴が大勢いるのは説明するまでもない。もちろん説得しても理解力がないので無駄だ。もちろん、殴ったら分かるのかというと、そうではない。しかも、殴ったらやらなくなるか、というとそうとも限らない。特に反抗期に殴るのは逆効果となる可能性もあるし、妙なトラウマを与えたら、後に非常に大きな影響が残ってしまう。


もう一つ、この種の反射的な行動を利用したトレーニングという視点も捨てがたい。特にスポーツの分野のように、反射的な行動を体で覚える必要があるような場合である。間違った行動に対して、痛みを感じさせることで、それを矯正するのである。


例えば、フォームが崩れたら電撃ショックを与えるような装置を考えてみる。フォームがおかしいとビリっと来る訳だ。こうするとフォームを単にビデオに撮影して見ながら直していくよりも、早く熟練できると思うのだが、どうだろうか?


刺激を怖がってしまって危ない、というかもしれないが、この場合は、そんなに強い刺激にする必要はない。体に何かサインを送ることができればいいのである。極端にいえば、もしかすると痛みを感じない程度でもいいかもしれない。その方が効果が小さいと思うのだが、実験した訳ではないので、これは誰か実験してみて欲しい。


Wii Fit にそういう機能を付けたら面白いのではないかと思うのだが。ヨガなんかでポーズが悪いと電撃でおしおきだっちゃ、みたいな。フラフープを落とすと大変とか。


さて、昔ならこんな蛇足しないで誰かひっかかるのを待っていたのだが、コメントの応対するのも何だし蛇足する。スポーツ学習で書いた、一人で刺激を受けて学習する装置の件を除けば、私は別に体罰に賛成だとは一言も書いてない。もっとも反対だとも書いてないが。単に、体罰にはこういう効果があるのではないか、という指摘をしただけであって、それ以上でもそれ以下でもない。


これ書いておかないと、昔だと、私が体罰賛成主義者だという前提で猛反撃する人が必ず出てきたのである。つまりツリなのだが、そういう罠にハマる人には「どこに賛成と書きましたか」と反撃する訳だ。


ところで、


俺らの時代なんて、タコナグリでボコボコにされてたもんなあ。

やりすぎると効果半減ですよね。慣れちゃうから。


※ 本記事は2008-08-31に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。