技術が経済のパイをひろげるって話 その3 を読んでちょっと書いてみた。


と言っておいて、のっけから余談なのだが、何回かこういうの書いてて思ったのだけど、昔、NIFTY SERVE でフォーラムとかあった頃は、こういうのにリアクションがないとちょっと寂しい感じがした。ところが最近は、読んでいる人のリアクションなんかどうでもいいというか、むしろ無反応を期待して書いている。だから、少し前に「トラックバックできないからしない」みたいなことを書いているが、仮にトラックバックできる設定だったとしても、まあいいんじゃないかな、という感じになってきた。


個人的には、基本的に、批判的なことを書くときはトラックバックを付けて相手に知らせる、ということにしている。フェアとかアンフェアとかそういう意味もあってそうしているのだが、堀江氏のようなステータスの人は、わざわざこっち見にくることもなかろうし、という安心感もある。


さて、本題、いってみよう。


100年前に暮らしていた人達に比べると相当豊かな生活をしているはずだ。それに異論はあるまい。

あるよ


豊かって何だろう?まず短絡的に考えてみる。つまり、たくさんモノが持てたら豊かだということにする。


確かに技術は画期的な進歩中で、昔はなかったが今はあるモノは非常に多い。しかし、昔はあったのに今は手に入らない、というモノだって結構あるのではないか?


若さ、なんてのは冗談だからおいといて、東京に暮らしていて、たまに田舎に行くとそれが分かる。おいしい水、おいしい空気、静かな夜。そんな簡単なものが東京では手に入らない。東京の夏は、真夜中でもセミが五月蝿い。まあでもそれって田舎行けば手に入るじゃん、と言われたらそれもそうだ。メガスターというプラネタリウムがある。何百万個の星を映し出して、天の川も忠実に再現するし、それ以上の普通では見えないものまで見せてくれる。東京で天の川は見えない。でも、田舎にいけば見える。


とにかく、技術や産業がある種のモノの生産性を劇的に上げた、それは真実なのだ。しかし、それと同時に、それらの技術がいろいろなものを奪い取り、殲滅したのも事実である。


じゃあもっと絞り込んでみようよ。食べることについて。昔は餓死する人だっていた、という話をした。今は日本でそういう人はいない。いや、最近も「おにぎりたべたい」と書き残して餓死した人いたけど、超レアケースだし、だから全国ニュースになるのだ。「食えなくて死ぬという人は殆どいなくなった、つまり豊かだよね」という視点ならどうだろうか。


その点は確かにそうだ。世界というレンジでみれば、毎日1万人の子供が餓死しているけど、日本は関係ないよね、つまり「日本は豊かな社会になった」ということだよね、たとえ食料自給率40%でも、日本が食えれば日本は豊かだ。という人はきっと多いだろう。日本には。


生産性は確かに上がった。死亡率も減った。すると人間はどんどん増える。毎日1万人の子供が餓死するといったが、実は昔はもっと死んでいたかもしれない。そういう意味では、世界的にどうなのかという点も、よく考えてみないと結論は出せない。


だとしても、ギョーザ食ったら中毒で倒れ、国産だと思って買っていた鰻は実は中国産、というのが豊かな生活?何か違和感がある。私見としては「食える」というのは「豊か」とはレイヤーが違う話のような気がする。もちろん、食えないと豊かではない、ということは言えるかもしれないが。


国産地鶏は固いからイヤだといって買わない人がいるから、柔らかい外国産の鶏を「国産地鶏」と偽って売ればよく売れるのだそうだ。美味さの基準が変わったといえばそれまでだが、本当は、味が分からない人間が増えているのではないか。小さい頃から化学調味料の味を刷り込まれ、美味いものといえば、ラーメン、カレー。まあ私だってそうなんだけど多分。そしてもう一つ失われたものは、


片や今はどうだ。部屋にずっといれば夏を感じることもないくらいに涼しいし、

エアコンはどこにでもある。ここ数年、地球温暖化の原因がCO2だとかいうビジネスモデルに世界が乗せられているのだが、例えば東京のエアコンを全部停止したら、東京都の気温は温暖化する前の状態に戻るような気もする。他にも熱源増えてるから無理か。


夏は暑いのが当たり前だったのが、今ではエアコンが当たり前になっている。快適かもしれないが、昔からの「部屋で夏を感じる」という楽しみが奪われてしまったとも言える。夏はエアコン、と清少納言も書いているが【嘘】、日本に昔からあった四季折々の空気が今はないのだ。例えば、「たきび」という歌がある。


かきねの かきねの まがりかど

まず「かきね」が滅多にない。


特に東京では、垣根の家は珍しい。泥棒が入りやすいからだろうか、手入れが大変だからか?大規模集合住宅が増えると、相対的にそういう曲がり角は少なくなる。六本木ヒルズにそんなものはないでしょ?


たきびだ たきびだ おちばたき

元社長氏は、たきびの経験はあるだろうか。今の東京23区内でたきびなんてしたら消防法違反で逮捕されそうな気がするが、いや確認したわけではないですよ、単なる想像だ。でも、ダイオキシンが出るとかいって、ゴミも燃やすのは本当に禁止のはずだし。そもそも、都内でたきびをするような量の落ち葉が確保するのは難しいし、それを焼く場所というのはもっと大変なことだ。道路は舗装されているから、後始末も大変だろうし。


関係ないけど、セカンドライフって、焚き火できるのかなぁ?


しかし、失われたものの中で本当に一番大事だったのは、落ち葉とか場所ではない。たきびをしている近くを子供が「あたろうか」「あたろうよ」と相談しながら歩いている、そういう、見ただけで癒されるような風景だ。なぜそれが癒される風景かというと、そこに人と人との繋がりが見えるからである。もちろん、今だって下校途中の子供たちがお喋りしながら帰宅するような光景は普通にあるのだが、そこから何か抜け落ちているような気がするのだ。


またぞろ長くなったのでここで一旦置く。次は宗教の話だ!


(つづく)


※ 本記事は2008-09-03に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。