ということで、続きなのである。ここまでは、ココログに一度書いたのを転載してきたのだが、今回からはアメブロで直接書いている。


なぜココログからこちらに移動してきたかというと、XHTML が間違っているのに指摘してもなかなか直してくれない、というのは特に関係なくて、記事を書いて投稿ボタンをポチっと押してから完了するまでに数分待たされる(誇張なし)からだ。


アメブロなら長くても数秒待てば更新完了する。他のブログだって、大抵そうだ。書いていて気分が楽だ、というより当たり前である。特に、ちょっとした誤字を修正するのに数分、というのは我慢の限界を超えている。修行している訳ではないので、そういう苦行はやりたくない。


ということで、技術と経済の話のはずなのだが、なぜか宗教と豊かさの話にどんどん逸れていく。今回書くことのポイントは「格差」だ。


私は格差は、マスメディアのグローバル化やネットの世界的普及によって、今までアクセスできなかった情報に触れることにより、心の中に顕在化してきたものだと感じている。

インターネットの前にはパソコン通信というモノがあった。インターネットは、より本質が抽出されたインフラであるが、根っこにあるものはいずれも同じである。人と人とが一次情報を直接やりとりできる時代になったのだ。


言い換えれば、それまでは口コミや井戸端会議のように僅かな例外を除けば、マスコミ等の情報を伝える仕事をしている人によって恣意的に加工された情報しか手に入らなかった。グローバルな情報は常にフィルターがかかっていたのだ。


インターネットの普及して、今まで隠されていた真実を誰でも見ることができるようになった。情報世界の大きな質的変化だ。マスコミが好き放題やってきた情報操作は、もはや通用しない。取材された人が報道を見て、言ったことと違うと暴露できるのである。実際、堀江氏は別記事でそれを実践している。(井上トシユキがいい加減なことを言っている件 )


今私たちは、偏った情報しか見ることができなかった世界から、全てを見ることができる世界への遷移ステージにいる。


インターネットは情報の質だけではなく、量も変えた。特に、情報が劇的に増え、比較が可能になった点は注目したい。紙の新聞の時代は、とっている新聞以外に書かれていることは分からなかったし、TVのニュースは、見ているチャンネルのものしか分からない。もちろん、多数のニュースを見れば複数の情報は手に入るのだが、それがいろんな意味で難しかった。インターネットのサイトは、殆ど同時に多数のメディアの発表を見ることに可能にした。多数のマスコミを比較できると、情報操作も当然難しくなる。捏造しても、他と比べたらバレてしまうのである。


逆に、多くのマスコミが不自然に同じ側を向いていると、それを知ることによって、裏に隠れている力が見えてきたりすることもある。


時代が一歩前に進んだのだ。もちろん、良いことだけではない。情報の洪水とか、情報に溺れるという表現がある。何でも情報がgetできるというのは、殆ど何もgetできないというのと似ている。人間の処理できる情報量には限りがあるのだ。既に限界をはるかに超えた量の情報がインターネットに溢れていて、人間は全ての情報を確認することができない。時間が足りないのだ。実は、IT革命の本質は、この大量の情報をまともにくらった人がどうすればよいか、という所にある。


将来への漠然とした不安感も、世の中を覆希望のないもやっとした感じも、以前のように宗教などでは、解決できないのかもしれないと思っている。

宗教が解決してきたのは、そのような難問なのだろうか?確かに多くの宗教は、来世という概念でソレ(不安)を払拭しようとしてきた。これによって、死という得体の知れない恐怖に対して、来世があるから死んでも怖くない、というような説得が可能になるのだ。


はてなとか、知恵袋とか、ユーザー間の質問解決系の掲示板を見ると、この種の質問が定常的に出てくるのが分かる。死にたい、生きているのがつまらない、苦痛だ、という相談事だ。「死」というのは回避不可能なイベントなのに、その後どうなるのか分からないという困った性質を持っている。


死といえば生。「人間はなぜ生まれるのですか」のような永遠のテーマもよく質問される。このような疑問は、本来、宗教が解決してきた分野なのだ。元社長と宗教との関連度は想像できないのだが、宗教を甘くみてはいけないことだけは確かである。オウムの事件があって、あれだけ叩かれてなお信者が教祖の写真を拝んでいるといった噂もある。ガセかもしれないが、宗教というものの持つ力を想像すると、あながち噂では済ませないモノがある。


例えば科学教。そんな宗教あるのかと言う人もいるだろう。今私が作ったのだから当然だ。科学は絶対である、という宗教の信者は多い。


科学はロジックとしては説得力のある体系の一つであるから、信用するのは間違いとはいえないかもしれない。しかし、科学では説明できていない事象も、たくさん残っているし、多分いつまでも残るだろう。特に存在論。なぜ宇宙はあるのか。なぜビッグバンが起こったのか。これは永遠に説明不可能な命題である。なぜなら、Aの原因がBだとしたら、Bの原因は何か、という新たな問題が発生するからだ。いつまでたっても新しい問題が解けない状態が続くのである。


インターネットは情報伝達能力においても、今までになかった強烈なパワーを持っている。だから、宗教に対しても、特に布教という点においても今までになかった効果をもたらすのではないか、と期待、いや危惧するのだ。


それに、宗教が今まで一体何を解決してきたのか、そこも突っ込んでおきたいけど、ごめん、限界かな、ここでまた切る。

(つづく)