今回で「技術が経済のパイをひろげるって話 その3」への突っ込みは終わる。今更だか、こんなに長くなるのなら別のコラムにすればよかったような気がするのだが、とりあえず行ってみよう。


一つの技術の発明が、どれだけ、一人ひとりの生活を豊かにするか。周りとの相対的格差を感じるより、以前の自分たちとの格差を感じ、自分たちがどれだけ豊かになったかに満足できるようになればいいと思う。

1箇所typo直しました。ローマ字入力?


2つ問題がある。まず最初の問題は、前回書いたようなネットの特徴から導かれるものだ。ネットの普及で情報が溢れている。格差は、これらの情報を選択する能力によって再構築され、拡大している。


人間、他と比較しないと、自分達がどのような位置にいるのかは分かりにくいものだ。ネットを使って今まで知らなかった世界を知ってしまったために、もっと上も下もあることに気付いてしまうのである。


通勤列車に立っていると、目の前の一つ隣に座っている人が降りることがよくある。そこの前に立っていた人がそこに座る。1つずれていたら座れたのに、と残念な気分になる。


ところが、座席に座っていると、ちょうど向かいの席の人が降りることがある。このとき、目の前に立っている人は後ろが見えないから気付かない。離れたところにいる人が空席に気付いて、そこに座ってしまう。目の前に立っている人は、自分がチャンスを逃したことを意識していないから、残念に思ったりはしない。


もしケータイに現在乗っている列車の空席状況がリアルタイムで表示されるような機能があって、立っている人が全員それを見ていたりしたら、何が起こるだろうか?


もう一つの問題は最初のテーマにある。「豊か」かどうかを判断するのは最終的に人間の心だ。物がたくさんあるという状態と、豊かという状態は、ちょっと違うと思う。


ライブドアのパブリックジャーナリストのセミナーに行ったことがある。5W1Hを書けみたいな当たり前の話ばかりだったが、デジカメで撮影するときに広角レンズがなかったら、レンズの前に近視用眼鏡を重ねるとよい、という知識は今でも活用することがある。


余談だが、実はその時もう一つ身に付けた技がある。写真を撮るという技だ。


六本木ヒルズのオフィスビル内は、撮影禁止である。だから、デジカメで撮影とかすると、警備員が飛んでくる。撮影してはいけませんと怒られる。ごめんなさい、知りませんでした。


実はこれで1枚撮っているという技だ。


私の経験では、この後に画像を消去しろとまでは言われたことはない。もし言われたら消去すればいい。


このセミナーで、次のような問題が出た。


インタビューしたい人を誰か思い浮かべて、その人への質問をできるだけ多く考えてください。


何分か後、いくつ考えたかを問われた。1つの人、2つの人、と順に手を上げさせたので、私は様子を見ながら3つか4つのあたりで手を上げた。確か、殆どの人はギブアップ状態だったと思う。


インタビューは技術である。慣れの問題なのだ。だから、慣れてなければ結構難しいが、経験があれば簡単に質問を作ることができる。つまり、練習しとけよ、という話なのだ。


実は私はこういうのは練習したことがあるので、いくらでも思いつく。というとウソだが、まあ10個位ならすぐに。つまり、10個ほど思いついたのに、3つか4つと言われたときに間違って手を上げたのだ。もちろん、私がそうなのだから、他にもフェイクの人がいただろう。


閑話休題。私が想定したターゲットは堀江社長(当時)だった。ライブドアのセミナーなんだから、真っ先に思いつくのは当然だ。堀江氏が絶好調の頃の話である。今も絶好調だったらすみません。


その時に書いた質問の中に、こういうのがあった。


今まで食べたもので、一番美味しかったのは何ですか?


こんな質問、誰でも思いつきそうだが、これだって慣れてないとなかなか出てこないものだ。しかも相手が超大物のときに、こんな下らない質問を本当にできるのか、という問題もある。


ところが実は、これは私のとっておきの質問で、機会があればよく使うネタなのだ。ただ、インタビューをするなんて機会は滅多にないので、最近使った記憶がまるでない。実は、この質問は続きがあって、相手が答える前にこう言うのだ。


「私だとそうですね、高校の時にクラブの後輩の女の子が作ってくれたお弁当が、味はよく覚えてないけどあれが一番美味かったです。」


言ってることは滅茶苦茶だか、さあ元社長、この後で何と答えるか、皆さんも想像してみて欲しい。


まさかフランスの超高級レストランで食べたン万円のフルコースとン十万円のワインが…なんてことは言わないと思う。どうだろうか、いや、言ってももちろん構わない。ただ、こっちは最近、財政的な理由で好物のコロッケ蕎麦を我慢してカケにダウングレードして食うような生活が続いているのだが、もし本当にそんな返事をされたら、「へぇ、意外と貧しい生活なさってるんですね、精神的に」とかうっかりボソっと言ってしまいそうで怖い。:-p


もちろん仮にも堀江氏が、そんなことを言う筈がない。もっとスゴイのが出てくるに決まっている。例えばそういうの毎日だったから特に印象はないなぁ、位は言うだろう。子供の頃に山で道に迷ってまる1日何も食べられなかったときに老婆が現れてくれたおにぎりが…、みたいなのが出てきたら完全に降参だ。


宗教の真髄は、実はそういう所にあるのだと思う。


満足するというのは心の状態である。それどころか、何か思うとか感じるというのは全て心の働きに帰着する。この「心」というのが曲者なのだ。ヒトがどれだけ満足するかは、基本的にそのときの状況に完全に依存するし、もっと言えばその人の人生に完全に依存する。


しかもそれは絶対評価ではなく、むしろ相対的なものなのだ。だから、腹減っているときにメシを食うと美味い。仕事をした後に食うと美味い。どんな美味い料理だって満腹のときには価値が激減する。だから、先ほどの質問は高級食材を答えるクイズではなくて、「美味い料理を食う」ための心とはどのようなものでしたか、と問うているのである。「豊か」に対する価値観を尋ねているのだ。もう一度引用させていただく。


将来への漠然とした不安感も、世の中を覆希望のないもやっとした感じも、以前のように宗教などでは、解決できないのかもしれないと思っている。

物があると、人間はその「物がある」という状態に慣れすぎてしまう。これが「豊か」という状態から人をどんどん遠ざける。持てば持つほどもっと欲しくなるか、持ってしまったところで「持つ」ことに対する意欲が消滅してどんより、ということもある。


イエス・キリストは「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい」と言った。My Fair Lady のヒロイン、イライザの父親のアルフレッドが、金持ちになったときに、…あれ、何て言ったんだっけ、とにかく何か言った。そういうことだ


だから、「豊か」は、実はむしろ宗教の中にこそあるのではないか。極論をいえば、宗教のない所に豊かという状態はない。だから、私の反論としては、宗教を失った現代人はどんなにモノを集めてもちっとも豊かになれない。たらふく不自由なく食うだけではメタボにはなれても豊かになれないのだ。