つづくと書いてしまったからには続けるしかない、ということで、「術が経済のパイをひろげるって話 その1 」への突っ込みの続きです。


現存する、ゲームやスポーツの、ほとんどがイギリス発であることが、それを証明している。

さすがに学校の歴史の授業ではこんなの教わった記憶がない。だから調べてみた。Webでテキトーに。間違っているかもしれないので、話半分ということで。「ほとんど」という位の話だから、だいたい合ってればいいばずだし。


もちろん、ゲームというのはテトリスとかぷよぷよの話ではないはずだ。当たり前か。ちなみにテトリスの作者アレクセイ・パジトノフ氏はロシア(旧ソビエト)出身で、今はアメリカだっけ?ぷよぷよは広島人か?


さて、まず調べたのがチェス。知らなかったのだが、チェスの発祥はインドらしい。将棋も遡っていくとそのあたりまで行くようだが、あるいは中国という説もある。なお、将棋の類のゲームは元々戦争シミュレーションだから、戦争が大昔からあったのと同じように世界中に存在しているはずだ。時代がかなり最近にずれるが、日本には軍人将棋ってのがあった。こういうバリエーションを考えると、どこからどこまでがオリジナルかという判断が難しくなる。例えば RPG の発祥の地は、というような話に近くなってしまう。


トランプの発祥はどこなのか諸説あるようだ。いずれにしても、東洋が起源で、ヨーロッパで広まった、という流れらしい。これもインドのタロットが起源という説があるそうだ。タロットを現在のトランプの形式に洗練したのは誰か、ということになると分からない。ヨーロッパの諸国に様々なトランプがあったことが知られている。ただ、イギリスへはフランスから伝わったといわれている。


トランプのゲームといえば、まずコントラクトブリッジはイギリスだろう、と思ったがよく分からない。


ポーカーはどうか。Wikipedia を見ると、プリメロ、 brelan、のような聞いたこともないようなゲームが出てくる。ペルシャからフランスに渡ってニュー・オリンズという説がある。いずれにしても、現在の形式に洗練されたのがイギリスであることは間違いなさそうだ。


麻雀は中国ですよね。これは間違いないだろう。囲碁も中国かと思っていたのだが、よく分かっていないらしい。かなり古くから、東洋のそのあたりにあったのは確かだ。


バックギャモンの原型となるのは「すごろく」である。すごろくの歴史は古い。古代メソポタミアか古代エジプト、そのあたりまで遡るそうだ。ちなみに日本では日本書紀に既に出てくるという。あれ、そういえばサイコロはどうなんだろう。チンチロリンとか。


となると、ゲームって意外とバラバラで、発祥の地が同じでも国々の文化に応じて分岐した、みたいな感じで発展しているのではないだろうか。


次に、スポーツの話。たくさんあるので大変だが、オリンピックの種目から特にスポーツっぽいのを限定でざっと調べてみた。


サッカーはイギリス、イタリア。蹴鞠ってどうなんだろ?
野球はイギリスのラウンダースというゲームがアメリカで進化したもの
ソフトボールはイギリス、クリケットが原型らしい
柔道はもちろん日本
水球はイギリス
レスリングはグレコ・ローマンという言葉からも分かるようにギリシャ・ローマが発祥、イギリスで進化
バレーボールは原型らしきものがイギリスにあり、アメリカで進化
バスケットボールはアメリカ
テニスはフランスに原型があり、イギリスで進化
卓球はイギリス
バドミントンはインドが発祥、イギリスで進化
ハンドボールはドイツ、デンマーク
ホッケーは古代エジプトに原型があり、イギリスで進化
アーチェリーはイギリス
ボクシングは大昔から様々な国にあるが、近代ボクシングの形式を作ったのはイギリス
テコンドーは韓国
カヌーも様々な国にあったものが、イギリスで進化
フェンシングはイタリア、フランスあたりか


他には、ラグビーは有名ですよね、イギリスが発祥。アメフトはアメリカに間違いないだろう。武術の類は各国にちらばっている。拳法やムエタイ、相撲、剣道など。これは武人が身を守り攻撃するために、個々の国において必要だったからだろう。


さて、こうしてみると、元となるスポーツがあり、現代のようなルールになるまでに紆余曲折して変化した。それが洗練される途中経過としてイギリスが絡んでくるものが多い、という程度なら言えるような気がする。「発祥」というのとはちょっと違う感じだ。


そうなった理由としては、イギリスの人達がスポーツやゲームばかりしていた、という解釈もできなくはないが、むしろ、単にイギリスの文化が世界に広まりやすい状況であった、ということではないか。ちょうど産業革命後に世界中が攪拌される時代に、イギリスの他国への影響が相対的に大きく、世界の中でも文化輸出国として活躍した、ということではないか。


※ 本記事は2008-08-28に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

次はこっちに突っ込んでみます。「術が経済のパイをひろげるって話 その1 」を読んで書いた独り言だ。本当はトラックバックを付けたいのだが、トラックバックを拒絶する設定にされてるようなので、こっそりとここに書くだけにしておく。というのは前回も書いたような気がする。


人間の欲望には際限がない。

それはちょっと違うような気もするが、後でもう一度これを思い出すことにして、先へいく。


これだけ世の中が便利で快適になっても、回りをみわたして、自分が回りより豊かでないと不満に思ったりする。

これもちょっと違うような気がする、というか大多数の人はそんなことを考えずに、あるいは考えても諦めてしまうのではないか。


「豊か」の定義次第かもしれないが、誰もが他人より上に立ちたがっていると考えているのなら大間違いだ。どちらかというと、日本人は他人と同じであろうとするような傾向があるはずだ。あるいは、そこからちょっとだけ豊か、というか、ハナ差でリードって感じまでか。まあでもそういうことでしか満足できない人がいないとは言わないし、また、そういう価値観を否定する気もない。


真面目にコツコツがいいという価値観を否定するつもりはないが、

コツコツというのもちょっと違うんだよなぁ、という人も結構いそうだ。例えば山頭火氏のような生き方、あれはどうなんだろ。


古くは農耕の発明によって人類は安定的な食糧の供給を可能にし、人口を飛躍的にふやした。

そこで終わればよいのだが、人口が増えると、食い物がもっと必要になる。食い物を作ると人口が増えてしまう。さながら無間地獄。


また蒸気機関の発明に始まる産業革命はそれまで人間がやっていた作業の大半を機械にやらせることにより、労働時間を減らし、多くの人に余暇の時間を与えた。

まてまてまてまて~


いや、まあいいか。いやいや、よくないな、例えばコンピュータが出現したことによって、毎月100時間を超える残業が強いられて客先に張り付けになってしまうSEの人とか知っていると、違うよどう見ても。むしろ、機械の発明によって、人間には「機械を操作する」という新たな労働が追加されてしまったと考えるのが現実だ。技術が進めば進むほど、人間の余暇は減っていく。


イギリス、産業革命、というキーワードが出てきているのだから、その当時を考えてみればいい。中学校の歴史の授業で出てくるレベルの話題だ。産業革命の当時、実際に労働者の過酷な労働が社会問題になっていた。余暇の時間どころではない。以下はイギリスの話。


産業革命がおこると、工場経営者が機械の操業時間を延長したので、労働時間が朝の5時や6時から夜の8時や9時まで13~16時間になった。女性や子どもの場合も同じであった。ようやく1833年の工場法以後、労働時間が制限される傾向がでてきた。9歳未満の児童を雇ってはいけない、11歳未満の児童の労働時間は9時間以内、18歳未満の労働時間は1日12時間以内とする。鉱山法では女性を地下で働かせてはいけないと決められた。しかし、男子の大人についてはなんの制限もなかった。

http://www.hm.h555.net/~hajinoue/print/39sangyoukakumei.htm


つまり、実際は、機械の出現で労働時間が増えてしまったのだ。なぜ労働が増えるのかというと、簡単にいえば、大量に生産して売ればそれだけ儲かるからだ。前と同じだけ生産するのなら確かに余暇も増えようが、倍の生産力を手に入れて3倍働く、みたいなエラいことになった訳だ。


元記事には百数十のコメントが付いているのに、この重要なポイントを指摘している人が殆どいない。ざっと見た感じでは2人いるけど、ここは凄いツッコミどころだと思うのだが、普通に勉強していたら中学生でも知っていそうなことを突っ込む人が殆どいないのが不気味である。中学の歴史のテストなら、正しい文章に〇を付けなさい、のような設問が出ることがあるが、この文章がもしその中にあったら一瞥で「×」を付けるのが正解。


作業の大半が機械化されようがされまいが、労働者は眼一杯働かされてしまう。それは今も同じだし、多くの歴史が証明している。そういえば、ちょうど Google が社員の優遇制度を縮小するというニュースが飛び込んできたところだ。世の中はやはり、破滅に向かうしかないのか。


IT革命はどうなのか。IT革命に至ると、ついに人間がやっていた作業の「大半」ではなく、丸ごとコンピュータにやらせることが可能になる。その結果、失業者が増え、終身雇用契約という労働形態が崩壊していく。というようなシナリオも在り得る。破滅の足音はどんどん高くなるのさ。


やっぱり長くなりすぎたので、一旦ここで切る。


(仕方ないからつづく)


※ 本記事は2008-08-28に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

ということで、続けようと思ったのだが、何か間違って編集中の文章をごっそり消してしまったような気がする。で、中途半端なんだけど、大野病院事件の話から続く。元ネタは、技術が経済のパイをひろげるって話 その2|六本木で働いていた元社長のアメブロ


故意でない医療事故に刑事罰をもちこむのは反対。

基本的に過失は罰しないというのが刑事罰の原則で、医療のような場合は業務上過失ということになって罰になったりする、というのは常識だから言うまでもないと思うのだが、医療の場合は業務上過失というのもナシにしよう、と解釈してみる。個人的には賛成したいのだが、言いたくはないが、世の中、本当に藪医者はいるのだ。私の場合、身内が一人医療事故で死んでるし、一人はもう少しで死ぬところだった。医者を甘くみてはいけないと思う。


しかし、危機管理という意味では、罰しないということで事実が表に出せるようになり、今後の事故防止に役立つはずだ。それが大原則だと思う。


ただ、過失といってもピンからキリまであるのだ。刑事罰はナシだとしても、医療免許剥奪あたりは場合によっては検討して欲しいと思う。新たな被害者を出さないためにも。


たとえば、ネット掲示板で冗談みたいな殺害予告をして逮捕されたりとか。

ていうか冗談なんだろうけど、あれは書く方がバカだろ。そうすれば何が起こるのか、という最低限をことを考えずに、何十億人が見ることのできる所に情報を出したりするからだ。例えばそれを書いたら万一を考えて警備を強化したり警戒したりすることになるだろう、ということが想像できないというのがおかしい。


やっと終わった。以上。


※ 本記事は2008-08-28に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

うっかり「つづく」なんて書いたものだから続きを書かないといけませんよね、遅れてごめん。「技術が経済のパイをひろげるって話 その2 」への戯言です。トラックバックしない理由は前回書きました。


子供に親が生きているうちから農耕技術の継承と土地の継承を行い、食糧の確保をせねばならなかった。

前回「違和感」と書いたモノについて考えてみる。農業をベースにして「家族」やそれ以上の規模の集団を維持することをイメージすると、どうもカムイ伝のような話が頭をよぎるのだ。あるいは、日本残酷物語に出てくるような例もそうである。つまり、農民というのは今までずっと、それどころではない世界に生きてきたのではないだろうか、ということだ。


宮沢賢治氏が「雨ニモ負ケズ」を書いたのが1930年頃だという。


ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

「ヒデリ」が「ヒドリ」だという説はさっき初めて知ったが、これは何百年も前の話ではない。かといって数年ということでもないのだが、東北の農耕のが昭和初期まで悲惨だったということは紛れもなく事実である。さらに昔、もっと悲惨だったと想像してもそう外れてはいないだろう。


今時のIT技術者なら、学校出て資格とって入社してからインターンシップで基礎技術を固めて…なんて感じかもしれないが、昔の農家はそんな悠長な状況ではなかっただろう。働ける年齢になったら全力で自分達の食うものを作る。食えるものが作れないと餓死するからだ。しかも不作になるかどうかが、天候のような人間にはどうしようもないファクターに左右される。実際、大飢饉のときには大勢死んでいる訳で、だから「親が生きているうちに」なんてのんびりした状況が想像できないのである。


そう考えると、この違和感の本質が見えてくる。つまり子供に「土地を継がせる」なんてことを考える暇があったのか、ということだ。もちろん、やれば出来るという格言もある位で【違】、作る気がなくてもとにかく子供はできる。結局、自分が今日食うのが大問題で、そのために子供を働かせるというような順序であって、継承なんてのんびりした話は出てこなかったのではないか。


余談だが、当時は今のような避妊技術もないし、医学も確立していなかった。そのため、いわゆる「間引く」という行為が行われていたはずである。今では考えられないことかもしれないが、そういうことも頭に入れておくべきだろう。


現代日本では、人口の9割が農業ではない産業に従事しているわけで、子供に土地を継がせる必要もないのに、一夫一妻制の結婚制度があたりまえのように存続しているのは、つい100年前まで、ほとんどが農民であったことに起因するのだろう。

成程。ちなみに、人口比でいえば、江戸時代は8割が農民だったらしい。現在は元社長氏が指摘している通りで、農業は人口の1割程度が従事している。( http://www.research-soken.or.jp/reports/digit_arch/population03.html )


ところで、今回の話題で人口比を考えるのは自然な発想だが、一般論としては、この種の統計を考える場合、絶対値と相対値、両方考えるのがよい。


今から100年前の人口は5000万人弱である。江戸時代なら、約3000万人程度と言われている。仮に江戸時代の8割が農民とすれば、農民は2400万人いたことになる。今の日本の人口は1億5千万人だから、その1割が農業に従事しているとすれば、1500万人ということだ。2400万人から1500万人になった、というのと、8割から1割になった、というのとでは、かなり印象が違う


まあでも減ったには違いない。


ちなみに、法律婚という制度が確立されたのは明治以降でしたっけ?「家」という制度が法的に定められたのは明治あたりで、農耕の発明なんていう大昔のことに比べると、意外と新しかったような気がする。


これまた長くなったので、多分まだ続く。あ、またヤバいような気が。

ホリエモンこと堀江貴文氏がブログを再開している。面白いことを書くのではないかと期待していたのだが、実際ある意味面白い。ただ、こう書くと失礼かもしれないが、個人的にはかなり期待ハズレなところもあるのだ。


ブログのトップに「思ったことを素直に書きます」と書いてある。それが既に怪しい。そんなこと普通は書かないものだ。ということは、穿った見方をすれば素直に書かない宣言とも取れるのである。実際に書かれたことを読むと、素直に思ったことを書いているというよりは、意図的に何か隠して、当たり障りのないことだけを書いているような気がする。裁判中にブログを書くということ自体、前例のないことなのである。もしかしたら、まだ裁判が続いていることの影響かもしれない。だとしたら多少は確信を伏せざるを得ないというのも仕方ないのだろう。


とはいっても、コメントが多数付いている。著名度を差し引いたとしても、一般には何等かの評価する人が多いことの祥子、いや証拠だろう。


さて、そのブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ 」の記事にトラックバックを付けようとしたが、できない。トラックバックが無効にされているようだ。トラックバックさせたくない、という気持ちは個人的にはよく分かる。毎日何百とかそれ以上の trackback spam が来るというのは、あまり面白いものではないのだ。


ということで、この文章は本来トラックバックするつもりで書いたのだが、それができない。コメントは書けるので、そこにリンクを書いておく手はあるのだが、トラックバックという機能が用意されているにもかかわらず、わざわざ不便な別機能で代用する、というのは面白くもないので、こちらから勝手にリンクだけ付けることにした。


まずスタンスを明確にしたい。同感だという類のことは、既に誰かコメントしているはずだし、そんなことを書いても仕方ないと思うので書かない。逆に、これ違うよ、と思ったことを書く。ただ、そういうことばかり書くと、細かいところをブツブツと揚げ足ばかり取っているように見えると思う。誤解されるかもしれないが、別に構わない。ということで行ってみよう!


ちょっと話が横道にそれるが、農耕の発明とともに人間界に新たな制度が生まれた。一夫一妻制の結婚制度である。

いきなりこれが怪しい。農耕の発明というのは大昔の話だ。私は、日本では弥生時代に米作が始まったと習った。最近は縄文時代と教えているらしい。どこまでが縄文時代でどこから弥生時代かが謎だが、米以前にも農耕はあったと思われるから、つまりもっと昔のことだ。


では、その大昔の日本で一夫一妻制の結婚制度が確立しつつあったのか?学校ではそういうことは教えてくれないが、例えば「家」の制度が広まったのはもっと後、かなり早めに見積もっても戦国時代から江戸時代あたりか。さらに、家長制度的なものが社会的に確立したのはもっと後で、明治になってからではないかと思う。だから時代的におかしい。


さらに、もっと根本的な反論もある。現在においても、厳密な一夫一妻制度は少ないという説だ。( http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/polygamy/index.html )


日本に当てはめるとどうか。「一部の武士など特権階級にのみ」一夫多妻であったということは元社長も指摘している。「のみ」と限定できる根拠が不明だが、誰もが多妻を養うことができる訳ではない、という意味で理解できる。一夫一妻という建前があった時代でも、いろいろ抜け道はある訳だが。


いずれにしても、日本で一夫一妻制度が確立したのは、農耕の発明よりもはるかに後のことだと思われる。だから、一夫一妻制度の起源を農耕と結びつけるのは疑問である。


ではなぜ一夫一妻という考えが出てきて、確立したのか?私見としては、宗教が最も重要なファクターだと想像する。すると問題は「宗教が一夫一妻を命じるのであれば、なぜなのか」という方向に展開する。面白い話だが、話が逸れすぎるのでこの話はここでおしまい。


次に、すごく違和感がある、この箇所。


それは子供を作り、その子供に土地を継がせる必要があったからだ。

どういう違和感かは後で書く。ところで余談だが、今でこそ少子化が問題になり、日本は年々人口が減るという異常な完成形の社会に近付いているようだが、昔は何人も兄弟がいる家だって別に珍しくもなかった。


戦前まで、家督というのは長男が継ぐことになっていた。ちなみに今でも特に田舎に行けば、そのようなしきたりが受け継がれている所も多いと思う。一人が家を継ぐというのには重要な意味がある。タワケとか「たわけ者」という言葉があるが、これは田を分けるという意味から来ているらしい。一つの田を分けて二人に継がせたりしたら、二人とも破綻してしまうのだ。では、長男以外は一体どうなるのだろう?


農業にちょっとでも触れたことがある人は分かると思うが、田畑は一年耕すのをやめると、雑草が生い茂り、もとの農地に戻すのに、大変な労力をかけなければいけない。

雑草だけなら1年もかからない。1か月で十分である。それに、田はともかくとして、畑に雑草が生えるのは耕すのを止めたからではなく、雑草を抜くのを止めるからだ。耕しておいても雑草は生える。今は除草剤という便利なものがあるから、昔よりは楽に処理できるかもしれないが、農作物がある所に使うのは怖いし、手作業の畑仕事ということになる。


農地というのは雑草がなければいいというものでもない。元の農地に戻すという意味においては、土地の栄養分だとか性質維持だとか、生態系のバランスであるとか、そういうところも重要だ。輪作という技術がある。畑から同じ作物を毎年作り続けると、作物が養分等を吸収してだんだん収穫が減ってくる。そこで、年によって違った作物を作ったりして、養分をまんべんなく使うようにする。場合によっては、1年間作物を植えないことがあって、休耕畑と呼ばれている。休耕畑は放置してある訳ではなくて、ちゃんと耕すし、休耕畑用の植物を植えたりする。


つまり、放置しておくとやはり後は大変なことになる訳である。だから労力という意味では元社長の言うことは正しいと思う。しかしあえて雑草という言葉が出てくるというのが面白い。一体何を暗喩しようとしているのだろうか。


何か長くなったのでここで一旦切る。


(つづく)


※ 本記事は2008-08-23に「フィンローダの裏の裏ページ」に掲載した内容を移転したものです。内容に変更はありません。

So-net ブログが7つの新機能を登場させるということでキャンペーン中。便乗すればポイントがもらえるというので、ちゃっかりと乗っかることにした。7つの新機能って言い回し、何か温泉天使【古】とかプリキュア7【謎】みたいなノリだが、最初の新機能は、これだ


タグとキーワード



いや、実に素晴らしい。タグだよ。キーワードですよ。今までなかったのが不思議な位だ。特にタグとキーワードを分けたところが…まてよ、タグとキーワードの違いって何だ?


一般論でいうなら、タグというのはそのコンテンツの性質を示す。これに対してキーワードは、コンテンツに含まれている要素、もしくはより具体的な個々の言葉を指すことが多い。例えば、コンテンツの中に実際に出てくる言葉をキーワードとして自動的に抽出したりする。


例えばぬこの話を書いた記事があるとしよう。この記事のタグに「ぬこ」と付けようという判断は適切である。それるによって、「ぬこについて知りたい」と思った人が「ぬこ」というタグで検索することができる。このとき、本文には「ぬこ」という言葉が一切出てこなくても構わない。内容がぬこに関することであればいいのだ。


「ぬこ」というのは具体的すぎてイメージがわかないかもしれないが、例えば「時事寸評」というタグを付けた記事本文の中に、「時事寸評」という言葉が一度も出てこないことはありがちだし、日記の中に「日記」という言葉が出てこなくても別に違和感はなかろう。このようなコンテンツ全体の性質を表現するキーワードが「タグ」なのである。


ていうか、まあどうでもいいんだな実際は。明確に使い分けられている訳ではないし。もちろん、システム上は区別されているはずである。例えば、私のブログのソースを見たら、最初の方にこんな行が出てくる。


<meta name="keywords" content="ニュース,事件,事故,話題,視点,社会 " />


これは META タグと呼ばれている情報の一種だ。タグなんて言葉を使うとややこしいかもしれないが、とりあえずこれによって検索エンジンが判断に迷わずに済む、といわれている。


では、タグやキーワードを付けるとして、具体的にはどういう手順なのか。このあたりは、So-net の公式サイトに丁寧に解説されているから紹介してみよう。


20080408-01

まずは自分の記事やファイルにタグをつけるましょう。

_| ̄|○


魔性の女?


いやいやいやいや、スルー力発動、まずブログの管理画面を開く。「設定」タブをクリックすると、「基本設定」という画面が表示される。ここで「ブログのタグ」という所に、タグを1つ書いて「タグの追加」ボタンを押すだけだ。


キーワードも同じ画面で指定することができる。少し下にある「プログキーワード」に、カンマ区切りでキーワードを並べるだけでokだ。


ていうか、何で操作を同じにできないのだろうか?


ということで、とにかく問題はキーワードやタグを付けるという作業の煩わしさである。すごく面倒なのだ。何とかならないのか?


ということでここで出てくるのが Web2.0 である。それって死語じゃないかという不届きモノがいるかもしれないが、実はそういう時に、ブログとかWebページを読んだ人が勝手にタグやらキーワードを付ける、というのが例えば「はてなブックマーク」のようなサービスなのだ。Web2.0 的には集合知、ということだろうか。自分の気付かなかった視点でのタグが付いたりするので副作用も期待できるのだが、もちろん弊害もある。勝手にタグを付けられるということは、付けて欲しくないようなタグも付いてしまったりするのだ。


いまいちまとまってないが、あと6つ機能が出てくるはずなので、多分次回に続く。

chatでネタを振られたので久しぶりに書いてみる。「もしあなたが○○さんでないのならサインインしてください 」の話だ。極論してしまうと、その言葉がユーザーに理解可能か、という問題である。


具体的には「ログアウト」や「サインイン」という言葉はユーザーが理解できるのか、という話なのだが、アプリケーションのマニュアル、特にチュートリアルを書くときには、専門用語を不用意に使わないという鉄則があって、もちろん Webユーザビリティにおいてもこれは重要なことだ。


そもそも「ログイン、ログアウト」という概念がまったくわかっていないらしい。


確かにログアウトしない人は結構いるようだ。「次回からログインを省略」のようなサイトも多いのだ。


本件を少し細かく分けると、2つのポイントがある。まず、ログイン、ログアウトという言葉が通用するか。もう一つは、ログイン、ログアウトという言葉の概念がユーザーに理解されているか。この二つは似ているが、微妙に異なる問題である。そもそもログイン、ログアウトの必然性を理解せずにログインしているユーザーが多いのではないか。


この話を見たときに、ある子供向けビデオを思い出した。中身は算数の学習用ビデオで、ターゲットは幼稚園児から小学校1年生あたりだろう。1+1から説明して、1桁の足し算、引き算あたりまで教えるというものだ。まず1+1の説明。博士みたいな人が出てきて、いきなりこう来る。


1たす1というのは、さんすうのきそになるものなんじゃ。


もちろん子供は「きそってなに?」と言うことになるのだが、誰だこのビデオ作ったのは?


まあそれは置いといて、「ログアウト」や「サインイン」という言葉をユーザーは理解できるか。他の方が指摘していたが、日本語という条件も重要である。英語を使う人達にとっては「sign in」という言葉がポピュラーかもしれないが、そもそも「サインイン」なんて日本語はないのだ。例えば goo辞書で探すと、新語として「サインオン」は出ているが、「サインイン」は見つからない。


ちなみに「ログイン」は

ID 番号・パスワードの入力など所定の手続きを経て、端末からホスト-コンピューターに接続し、複数ユーザー用コンピューター-システムの使用を開始すること。ログ-オン。

(goo辞書 - 三省堂提供「大辞林 第二版」より)


となっている。ログインという表現は、万人が知っているかどうかはさておき、一応、日本語として認知されていると考えてよいだろう。


ところで、この「もしあなたが○○さんでないのならサインインしてください」という言葉が不自然な日本語だという指摘がある([観] もしあなたが○○さんでないのなら…… )。


不自然な日本語といえば、私が中学生か高校生だったかいつだか忘れたが、友人が電車の中に置いてあるカバンを見て、「一つの鞄がある」と言ったのを思い出してしまうのだが、それはどうでもいいとして、私見としては、「サインイン」という言葉は日本語としては不自然である点を除けば、この日本語は特に不自然な感じはしなかった。むしろ普通の日本語だと思う。もっとも、普通は「相手が誰だか不正確だが○○さんである可能性が高い」のようなシチュエーション自体が不自然なのかもしれない。


yodobashi.com の場合、次のような表示になっている。


(もし○○さんではない場合は、こちらをクリックしてください)


「こちらをクリック」の所は、ログインページ(ログアウトではない!)jに誘導するリンクになっている。代名詞ではなく固有名詞が表示されていること、「クリックする」という具体的な操作が示されていること、この2点がユーザビリティ上は重要である。ユーザーは文章を最初から逐一読むとは限らないので、部分的に見たときに誤解がないように指示することに、意味があるのである。また、固有名詞は文自体を強調する働きがあるので、ユーザーがうっかり見落とさないようにする効果もあることに留意しておきたい。


面白い記事を見つけた。「ハンバーガー・ウェブ:クロサカタツヤの情報通信インサイト - CNET Japan 」というのものだが、ここに出てくるWebサイトは多分これだ、というのも発見した。


トップページにあるボタンはすべて英語「のみ」の表記。平易な単語とはいえ、ここで躓いてしまう人もいるだろう。


このことからも、間違いなかろう。但し、元記事に全くそのサイトのURLが出てこないので、こちらにもURLを書くのは控えておく。興味のある方はアドベンチャーゲームのつもりで自力で発見して欲しい。


さて、氏はまず店舗情報を探そうとして苦労したという。


かつ、その英語表記も単語一つだけで、ユーザが直感的に「これ」と選べる代物ではない。


いやそうかなぁ?Restaurantだろ。そうに決まっている。勘だけど。ほれみろ、一発だ。ただし、私の英語力はマイナスに近い代物だから、もしかすると英語がデキる人には分からないというオチなのかもしれない。ちなみに日本語だとずばり「店舗情報」という名前で表記されることが多いようだ。ちょっと気取ったサイトだと「アクセスマップ」と書いてあることもあるが、これは知らない人には何のことか分からないかもしれない。


目をこらしてみると一番下に小さく"map"という文字がある。

あった。本当だー。しかもデザインがボタンになっていないから、クリックできるかどうか分からないという基本的なミスをしている。まあそれは軽く流すことにして、おや、2号店があるのか。だったら、2号店の場所を見てみよう。もちろん2号店の情報が表示できるということに気付くのも一苦労なのだが、そんなことはどこでも押したがる私にはどうということはない。


実は「サンシャインシティアルバB1」と書いてあるから、これだけで私は場所が分かる。それはそうとして、map を表示する。



クロサカタツヤさんはファイルサイズの巨大なことを指摘しているのだが、いやその、断言するとアレなのであくまで私見だけど、この地図、ひどいです。サンシャインシティを知らない人がこの map だけ持って池袋駅に行っても、多分たどり着けないのではないか。もっとも、池袋駅からサンシャインシティに行くこと自体が、その場所を知らない人には難しい、というのが根本的な原因かもしれないが。ひどいというだけでは意味が分からないでしょうから具体的に一つ書いておくと、この地図には目印になるべき建物が足りなすぎる。


私はおせっかいだから、こういのはまず当事者に連絡したくなる。今回も連絡しようとした。毎回のことだが、連絡先のメールアドレスが分からない。お問い合わせというボタンがあったから押してみたら、何とご利用店舗とご利用日時が必須のフォームが出てくる。しかも氏名が必須なのである。そういうサイトには知らせなくても別に構わないと判断するのは自然な発想である。


実はここに一つ、根本的な問題がある。利用者からのフィードバックを拒絶しているようなサイトは、やはりそういったクオリティになってしまうのだ。スキルとかノウハウではなく、心構えのレベルの問題なのだと思う。お客様がどう感じているのかという情報は、企業として最も必要としているものの一つのはずだ。それを有効にgetできないようでは、他のあらゆることだってどうなのか、簡単に想像できてしまうし、大抵それは当たっているのである。


さて、ひどいサイトには違いないのだが、クロサカタツヤさん、このサイトの Copyright 表示を見落としたのだろうか、実はこんなことが書いてあるのだ (2007-08-20 現在)。


20070821-01


キター All Right Reserved、久しぶりに見ました。つまり、これは確かにユーザビリティ以前の問題なのだ。多分、作ったのがプロではなくて、素人なのだ。


何を根拠に素人と、ですか?


うーむ、んなの、いくらでも指摘できるのだが、例えば、たった58行しかないこの短いトップページを w3c validator にかけたら18 Errors ですよ。こんなにエラーを多数出せる公式サイトなんてのは、私は他には1つしか知らない。なお、ちなみにそれどこだと聞かれても絶対に教えませんのでよろしく。


それにしても、xml:lang="en"と指定していて、charset が shift_jis というのが分からないのだが、もしかして、作ったのが日本人ではないし、英語も得意でない、みたいな?だったら日本人が直感的に理解できないページであることは無理もないのだが。


自動車から降りた女の子が運転しているママに怒られていた。降りた車の前を横切ったのだ。ママの言い分は「自動車から降りたら後ろを通りなさい」である。常識としてはこれで合っている。

さて、自動車から人が降りた後、車は前に進むのだろうか? その確率は高そうだ。しかし絶対とは限らない。もしバックしたら、後ろを通る方が危険ということになる。例えば自動車をバックしてガレージに入れる時は、そのような状況になる。 このときは前を横切った方が安全だろう。

また、一般に、運転手にとって、自動車の後方の方が、前方よりも見難いことが多い。前方を通るのは危険だが、運転手が気付く可能性は高い。運転手が気付けば、車は停止する。もともと停車していたのだから、それほど速度は出ていないはずだ。逆の考え方もある。運転手は前方を見ながら運転することに慣れているから油断するかもしれない。後方は見難いことを知っているから、慎重に運転するだろう。

もし子供にこのことを教える機会があったら、自動車が行くのを待って道を渡るように教えるのがよい。車がいなくなったら、その車に轢かれる心配はない。


リフィル

4月始まりのものを使っているので、3月頃に買っていてもよさそうなものだが、なかなか売っているところに行けないので、今頃買うことになってしまった。


買ったのは Bindex の 2007年4月始まりのもので、BD-011 という型番が付いている。似たもので1月始まりのものがあって、売り場で並んでいると、表紙の色が変えてあるので、一見違いが分かりやすいような錯覚に陥るかもしれないが、確かに売り場の店員とか、業者とか、営業の人には分かりやすいかもしれないが、お客さんの視点から見れば、どっちの色が何なのか分からないから、ほとんど意味がない


しかも、これを手にとって裏を見ると、スケジュール欄の見本が2007年12月のものになっているのだ。これは1月始まりのものと同じである。


この見本ページは、毎年入れ替わっている。ここが2006年12月だったら、2006年のものを手にとってしまった、というように客が判断するだろう。だから、その年の内容を紹介するのはいいアイデアである。ただ、2007年12月のページが最後に見えていると、この商品が12月終わりの内容である、という錯覚を感じてしまう。


2007年12月の見本だけ作れば、コスト削減になるのかもしれないが、ただ、買う立場からすると、4月始まり・3月終わりの商品なのだから、3月のページが見えていた方が安心感があると思う。